F-105's Page
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466th TFSの3ページ目は、同隊がF-105BからF105Dに機種交換した後の1981年から1983年にかけてのD型各機の写真である。大戦中ドイツ軍相手に戦闘爆撃機として散々暴れまくったP-47サンダーボルト。これを作ったリパブリック社らしい設計の機体であるF-105サンダーチーフ戦闘機、何と胴体に核爆弾を収納できる爆弾倉を持つ戦闘爆撃機で、この思想は、当時の西ドイツがF-104Gに期待した任務と重なる部分がある。要は超低空で敵レーダーをかいくぐり核爆弾を抱えて敵地に叩き込む事が、主たる役割として造られたのである。従って、ベトナム戦争に駆り出されても、戦闘機ではなく北ベトナム爆撃の主役として使われたため、重い爆弾を抱え鈍重となり被害も多かった。ベトナム戦初期の爆撃行の75%はB-52ではなくF-105が請け負っていたのである。また、敵対空レーダー、対空ミサイルサイトの発見と攻撃と言う極めて危険な任務も複座型のF-105Fが担当していたので、F-105の生産機数の約半分がベトナム戦争中に戦闘・事故で失われたと言われる。(2023年11月 記)
↑ 1983年8月に撮影された同じF-105D/62-4347、ラストフライト2か月前の姿という事になる。尾翼にはスコードロンインシグニアの口を開けた蛇が書かれているが、濃緑の迷彩地に黒で書かれている為、近づかないと判らない。現在この機体はヒル空軍基地のゲートガードとなっている。
↑ 1982年5月に撮影されたF-105D/61-0108。
↑ 1982年6月に撮影されたF-105D/62-4353。バージニア州空軍149th TFSがA-7Dに更新する際に、余剰となった機体が回ってきたものである。左翼のジェットインテーク下には、アートがある。胴体下の懸架物はパッケージポッド。
↑ 1983年9月に撮影された同じF-105D/62-4301。ヨーロピアンⅠ迷彩の上、太陽光がトップにある為、機体が黒くて良く判らないが、機首には”My RARMA”の文字が入っている。
508th TFG/466th TFS
↑ 1982年12月に撮影されたF-105D/61-0199。生産番号でこの機体の前10機も全てベトナムで撃墜されるか、事故で失われる等して消え去っている。これがベトナム戦で酷使され消耗が激しかったサンダーチーフの実態なのだ。
↑ 1982年9月に撮影された複座型のF-105F/63-8261。複座のF型もベトナム戦ではワイルド・ウェーズルとして使われたため、多くがSA-2対空ミサイルで撃墜されている。この機の次の生産番号63-8262も1967年北ベトナムで、SA-2ガイドラインミサイルで落されている。
↑ 1981年5月シカゴ オヘア・フィールド(現在のシカゴ国際空港)で撮影された466th TFSのF-105D/61-0099。それまでオクラホマ州ティンカー空軍基地で同じリザーブ飛行隊の465th TFS(tail-letter SH)が使っていた機体が移管されてきた。生産番号でこの機体の次の次である61-0101から61-0105は、全て事故で失われたか、ベトナムで撃墜されている。
↑ 1983年4月に撮影された2枚上の写真と同じF-105D/62-4328
↑1981年5月に撮影されたF-105D/62-4301。キャノピ脇にMig撃墜マークのような赤い星が書かれている。ベトナム戦ではF-105は27機以上のMigを撃墜しているが、その殆どはこの機体のM61A1 20mmバルカン砲の成果によるものである。 
1983年6月4日 ヒル空軍基地ではF-105の引退にあたり、466th TFSの所属機24機が、4機のダイアモンド編隊を6つ組み合わせたビックアローの大編隊を組んで上空をフライパスしている。
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↑ 1982年6月に撮影されたF-105D/62-4299。
↑ 1983年4月にルーク空軍基地で撮影されたF-105D/62-4347。カンサス州空軍で長らく使われていた機体であるが、ここユタ州ヒル空軍基地では、1983年10月3日最後のフライトをしたF-105Dとして記録されているようだ。バージニア州空軍の機体と同じ場所にアートがある。
↑ 上の2枚は、1982年6月にカナダのコールドレークで撮影された457th TFSのF-105D/62-4318と62-4242。メープルフラッグ82に参加した機体で、62-4242のコックピット横には撃墜マークらしき星が書かれている。
F-105D (1981~1983)
↑ 1982年11月に撮影されたF-105D/61-0088。機首の20mm機関砲の砲口が良く判る写真である。F-104戦闘機と同じM-61A1機関砲であるが、発射時は薬莢を機外に吐き出さず、機内BOXに収納する方式を採っていた。当初吐き出した薬莢をエンジンナセルに吸い込む事故が多かったためである。携行できる弾はF-4ファントムよりはるかに多い約1000発を機内収納できた。